2010年12月4日土曜日
尼子勝久公供養塔
当山は尼子忠臣であった立原久綱公の墓所であります。平成二十五年には四百年の法要を営むのですが、思い返せば久綱公はご自身の法要よりも主君・尼子勝久公の供養を望んでいたのではないかと慮るのです。
尼子勝久公は尼子の分流である尼子新宮党の遺児としてお生まれになられました。
戦国大名尼子氏の最強の軍団であった尼子新宮党は、その威勢を警戒し危ぶんだ主君尼子晴久によって粛清されます。
ほぼすべての新宮党の人間が命を奪われた中、勝久公は乳児であったことから助けられ、のちに東福寺へ預けられます。
やがて時が流れ栄華を誇った尼子氏も毛利元就によって滅ぼされると、尼子の忠臣たちは再興を願って勝久公を東福寺から引き戻し大将に据えます。
おそらくこの尼子の忠臣と呼ばれるものたちの中には、勝久公のご家族を手に掛けた人間もいた筈です。
どのような思いをその心に秘めておられたのでしょうか・・
そして尼子再興軍は播磨上月城で毛利に敗れます。尼子家臣の命を助けるために大将である勝久公とその家族は自害します。
当山開基である立原久綱公はその責任を強く感じた人でした。
勝久公の死後、居士となり禅に帰依しその御霊に終生手を合わせ続けたのです。
その墓所である当山の一画に来年の七月三日・・勝久公の命日とされる日に供養塔を建てる計画をしております。
現在その有志の方を募っているところであります。 【住職 合掌】
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